「あの日、本当に信じられないことが起きた」…宮古・田老の“学ぶ防災”ガイドが15年前の記憶を伝え続ける理由

「あの日、本当に信じられないことが起きた」…宮古・田老の“学ぶ防災”ガイドが15年前の記憶を伝え続ける理由

東日本大震災から15年。時間の経過とともに、人口減少や記憶の風化が進み、震災を経験していない世代が増えるなか、新聞記者はどのような役割を果たしていくべきなのか。そんな思いがあった。何か教訓を得られればと、この夏、岩手県宮古市の田老地区で「学ぶ防災」ガイドとして啓発活動を続ける宮古観光文化交流協会スタッフの 小幡 実 さん(70)に、震災遺構のホテルや巨大防潮堤などを巡るコースを案内してもらった。

震災遺構となった「たろう観光ホテル」の604号室に足を踏み入れると、何とも言えない緊迫感が漂っていた。押し寄せてくる津波の映像を再生する機材にスイッチを入れ、小幡さんは「わずか4分ほどで田老の町がのまれてしまった……」と険しい顔になった。

ホテルは田老漁港に面し、決壊した高さ10メートル、延長582メートルの第二防潮堤の正面に位置していた。6階建物のうち、1、2階と3階の一部は津波によって流され、鉄骨がむき出しとなった。それでも倒壊することはなく、4階以上はほぼ当時のまま残されている。

見せてもらった5分30秒ほどの映像は、震災時にホテル社長がこの604号室で死も覚悟しながら撮影したものだという。津波が防潮堤を越える瞬間から、車や建物などあらゆるものを一瞬にしてのみこみ、わずかな時間でホテルまで到達する脅威を生々しく伝えている。田老地区では181人(行方不明41人を含む)が犠牲となった。

映像の視聴を終えて窓から眺めた海は、津波の恐ろしさを想像できないほど穏やかな表情だった。小幡さんは「あの日、本当に信じられないことが起きた。だけど、今はまたいつ起きてもおかしくないと思うようになった」と話した。

教育旅行や観光などで実際に田老地区を訪れ、現実味を感じてほしいとの思いから、映像は当面、この部屋に限って視聴してもらうようにしているという。

コースのなかでは、波高を実感できる漁協の「製氷貯氷施設」にも足を運ぶ。近づくと、思っていた以上の高さに驚くしかなかった。

かつて「万里の長城」とも呼ばれていた一角で、高さ10メートル、延長1350メートルある第一防潮堤の上を歩いた。多くの死者・行方不明者が出た1896年(明治29年)6月15日、1933年(昭和8年)3月3日の大津波、そして東日本大震災。繰り返されてきた被害から学んだまちづくりの一環で各所に避難道やソーラーパネルが整備され、高台移転が進んだことも小幡さんは解説してくれた。「過去の教訓を生かしきれなかった面もあるが、最後は自分の判断力が生死を分ける。一人一人が防災意識を高めてほしい」と強調した。

震災後の2021年、この第一防潮堤をさらに守るように高さ14・7メートルの防潮堤が新たに完成した。巨大な二つの壁が重なり、道路からはきれいな海が見えなくなっている。コンクリートの人工的な景観について、小幡さんは「この方法しか本当になかったのかと思う」と複雑な表情をのぞかせた。

田老地区出身で3人きょうだいの末っ子という小幡さんは震災時、たろう観光ホテルの近くで母と民宿を営んでいたという。「あの時、いつもと違う異様な静けさを感じた」。高台へすぐに車を走らせて難を逃れたが、民宿は津波にのまれ、何も残っていなかった。避難所、仮設住宅、大学時代を過ごした神奈川県内での生活を経て、11年前に「誰かが故郷のことを伝えていかなければ。これが最後の仕事」とガイドの職に就いた。

宮古観光文化交流協会の「学ぶ防災」ガイドによる活動は2012年4月にスタートした。現在は小幡さんを含め、40歳代から70歳代の5人が奮闘する。自らの体験談、住民から聞き取った被災状況、防災や復興への思いを「語り部」として伝えている。

これまでのガイド利用者は25万1620人(7月末現在)という。防災に関する研修や教育旅行だけでなく、田老地区を代表する「 三王岩 」など美しい自然景観や地元の味覚を楽しみながら訪れる人も少なくない。関心の薄れも進んでいく今だからこそ、小幡さんたちは被災地以外に暮らす人々へ何をどう伝えていくか、新たな工夫や趣向を取り入れ、きっかけをつくる必要があると考えているという。ガイドは所要時間やコース、人数によって料金が異なる。

ガイドスポット以外にも、田老地区には25年6月にオープンした「宮古市災害資料伝承館」がある。津波の威力でひしゃげた道路案内標識、歴史や被害の様子を伝えるパネルなどが展示され、復興のまちづくりの様子がプロジェクションマッピングで紹介されている。ぜひ、この施設も見学してほしい。

ここ数年、宮古港に寄港するクルーズ船が急増している。宮古市観光課によると、26年度は10年前の5倍近い23隻の寄港が予定されている。米、英、仏、独などから訪れた乗船客が「学ぶ防災」ガイドを利用することもあるという。小幡さんはおもてなしの心と日本の歌を知ってほしいとの思いから、コースを案内した最後に「誰か故郷を 想 わざる」を披露している。「何か日本らしい文化にもふれてほしいのです」と照れ笑いする。

田老地区へ向かう途中、クルーズ船の客にも人気という「 寿司 魚正」(宮古市鍬ヶ崎上町)に立ち寄った。親方の 大友 正仁 さん(74)は店を構えて40年以上。東日本大震災では店が津波の被害を受けた。だが、何とか再建を果たし、地元の食文化を守ってきた。港町で長く続いてきた力強さを感じる。

この店では、宮古湾で養殖に力を入れている「宮古トラウトサーモン」を味わった。鮮やかなオレンジ色の身は、脂がのってモチモチした食感。大友さんは「養殖業者が工夫し、餌にもこだわっている」と教えてくれた。子どもたちからの注文も多いという。

災害報道は、目の前にある危機や現象を追うだけでなく、時間をかけて長く報じていく継続性が必要なことを、宮古市を訪れて改めて学んだ。被災地には、伝え切れていない言葉や教訓を掘り起こし、発信を続ける人がいる。

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