佐藤多美江さんが「震災当日の話を聞きたい」と、石巻市北上総合支所の今野照夫さんを訪ねた。支所にいて津波の犠牲になった市職員17人のひとり、市民生活課主幹の佐藤正子さんの妹だ。正子さんは行方不明になっていた。
ついに来た、と今野さんは思った。あの瞬間を思い出すのは苦しいが、生還した自分が家族の問いに答えなければならない。その一人目が多美江さんだった。正子さんは一つ下の同僚で、旧北上町時代は机を並べて広報紙を一緒に作ったこともある。多美江さんとも昔からの顔なじみだった。
3月11日午後3時半すぎ。ずしんと震動があり、2階建ての支所が揺れた。一帯が津波で浸水する中、隣にあった高齢者デイサービスセンターの建物が流され、支所の一角にぶつかった音だった。直後に女性職員3人が地域振興課に駆け込んできた。そのなかに正子さんがいた。
3人は他の職員らとともに小会議室に身を寄せ、今野さんは扉を隔てた地域振興課の部屋に残った。やがて濁流にのまれて外に放り出されたので、同僚たちのその後は見ていない。
立ち話だったが、そんなことをかいつまんで話した。
「姉の携帯電話にかけたら呼び出し音が鳴る。どこかで生きているのかも」と多美江さんが言って、「鳴るの?」と今野さんは驚いた。普通に考えたらありえないが、電波が途絶える前に本当に通じたのかもしれない。「正子さんから電話があった」と多美江さんに話す親類もいた。このころの被災地は、事実と願望が入り交じったような曖昧で不思議な話があちこちで交わされていた。
多美江さんは父の源太郎さん、母のきね子さんも津波で亡くしている。父と母は1週間ほどで対面できたが、正子さんはどうしても見つからなかった。
真面目で責任感の強い人だった。できることなら近くの山に避難してほしかったが、支所に続々と集まった住民を見捨てられるはずがない。誰かを責める気持ちは湧かなかった。
それでも、当日のことを知らなくては前に進めない気がして、勇気を振りしぼって今野さんに会いに行った。
涙をこらえながら話を聞き、多美江さんは思った。姉は確かに生きていた。波が来たその時間までは。
すこしだけ、姉をそばに感じられた気がした。
「車の近くも探してみたら」と今野さんは言い、職員の車が山側にまとまって流されていると教えてくれた。行ってみると、よく聞いていたCDが何枚か、姉の車の中に泥まみれで残されていた。
正子さんはその後も見つかっていない。多美江さんは100日をめどに姉の葬儀をあげた。空っぽの骨つぼがあまりに軽くてさみしかったので、車にあった形見のCDを代わりに入れて墓に納めた。
連載「今野照夫さんの震災日記」は宮城版のシリーズです。過去回は読売新聞オンラインで読めます。
2011年、東日本大震災の津波が宮城県の石巻市北上総合支所をのみ込み、職員や避難した住民57人のうち54人が犠牲となりました。支所の地域振興課補佐だった今野照夫さんも外に投げ出され、2時間漂流したのちに生還。翌日から始まった災害対応を、420日間にわたり克明に記録し続けました。